私は一休み後、希望を持つことにした

疲れたので一休みしているブログ

小中高校の頃のことと将来の夢

全てを吐き出したら、何か変わるかしら。そう思って自分語りをします。

不安障害も、発達障害も、鬱も、もう頑張りたくない、死にたいという気持ちも

折り合いがついたらよいのだけど。

 

小中高のことはなんだかぼんやりしているんですけど

何かのきっかけでなんとなく思い出します。

あ、記憶喪失ではないです。エピソードを忘れているだけです。

 

子ども時代に戻りたいとかあるけど楽しい記憶が本当にまるでないので

別に戻りたくないです。

腕力と人権とそれなりに反論できる言葉を知っている今の方がいいです。

 

☆思い出話

 

小学校のころから私は大人の要求を満たす振る舞いを強いられていたので

というか、過敏に反応せざるを得なかったので

生きるのって辛いなぁと思っていました。

発達障害ぎみなのに空気読むのってほんと難しいんです。

でも勉強は出来ていたので、表面上は優等生ですが教師からも嫌われていました。(後述)

 

小学校のころからスクールカースト的なものがあり、

私立なのも原因だと思うんですけど

・お金持ちの子(ここのレベルがすごい、医者の息子やら大企業の娘やら)

・頭のいい子

・可愛い子

・気の強い子

 

カースト上で

・貧乏

・馬鹿

・不細工

・気が弱い

が下でした。

 

私は・頭のいい子(勉強という意味で)に入っていたので、カースト上でした。

と、知ったのは卒業後でした。

それなりにいじめられたような嫌われていたような気もするんですけど、

同窓会に頻繁に誘われたり、遊びに誘われたりしていたので不思議でした。

全部断っていました。リンチか何かされるんでしょ、と思っていました。

なんでこんな人間不信に陥っていたのかというと後述になりますが

家庭環境と出会った教師に外れが多かったからです。多分。

 

 

不幸なことに

母親が小学生時代に新興宗教にはまり

私にも強要し、よくわからん祝詞を覚えさせられたり

集会に行かされていたりして、子供心に「なんか周囲はおかしい」と

精神が全てシャットアウトするようになっていました。

ただ、祝詞を覚えないと悪いことが起こる、

お前のためにやっている、と母親がいうので

恐怖心から従っていました。

多分相当変な子供だったと思います。

 

それから母親が小学校のママ友に影響され、私を「良家のお嬢様」にしたてあげようと躍起になっていたのですが

(で、暗い顔をしていると殴られ、いつもにこにこしていろという話に繋がります。「お前は暗いんだから友達ができないだ」と詰られることもしょっちゅうでしたが、それはそれで凹むんですけど、心のどこかで友達いなくて困る事あるの? もしかしてお母さんが一人じゃなにも出来ないから周囲と合わせないと生きていけないんじゃないの?という気持ちがありました。徐々にこの人馬鹿なのかな?とも思い始めました。でも言うとご飯貰えないので言いません。あ、友達いなくてもって、ぼっちを肯定する気はありません。私にもほんの少しだけ友達がいたし、漫画や本の話をしていると心地よかったです。でもそれで十分じゃないでしょうか。沢山の友達がいることは素晴らしいけど、少しでも友人がいて心許せるなら私は満足だったんです。ちなみにその友人はおとなしいタイプで、カーストは上じゃないけど落ちつきました。てかカースト上の人といると異常に疲れました。空気読めないと瞬殺されるし)

話を戻します、

躍起になった母は私を明るくさせよう、スポーツも勉強もできて

誰からも好かれる子供(+敬虔な新興宗教の信者)にしようとするのですが

多分そういう生活と塾と深夜までの勉強が心底ストレスだったのか、全身(頭まで!)皮膚炎になってしまい

とても気持ちの悪い姿になってしまいました。リンパの近く?からじくじくと液がでて、琥珀色の物体がかさぶた状になりました。髪にも艶が無くなり、バサバサになりました。

子供でしたが自分の姿が醜くなるのが嫌でした。母はそれを見て心配というか焦っていた気がします。

 

ストレスがたまると帯状発疹(?)大学病院に行っても正式に分からない

発疹がでる癖は今も残っています。薬は効かないので放置です。

 

前述しましたが、

私は教師からもなんか嫌われていたので(ただ親の前では私を褒めるので親はいい先生だと思っている。)それも苦痛でした。多分、人工的な優等生っぷりが鼻についたんですかね。でも良く分かりません。ただ教師なら嫌っていても表に出すのはちがうと思います。あ、悪い事して叱るのは別ですよ。

 

学級委員をしていたのですが 

無視は当たり前、酷い時には怒るためだけの(?)難癖つけられて怒られていました。

露骨に、貴女は仕事をしていない、皆をまとめていない(もう一人の学級委員も同じ仕事をしてもお咎めなし)

病弱な子の面倒を見ていない

積極的に動かない

絵(なんか受賞した)を描いたからといって調子に乗るな、的な

子供心に「?」と思うことで怒られていたのですが、

一方で みんなの前では○○(私)さんは素晴らしい、みなさん、○○さんを見習いましょう。

特に××くん、貴方は(以下説教)

的なことを終わりの会で言うので、私はクラスの大半からもいけすかないやつと思われていました。(私自身はそんな害ないけど、先生にとりいるいい子ぶりっこ的な)

 

ちなみに地方の私立なんでクラス替えありませんし担任も持ち上がりです。

まさに地獄。

 

そんなこんなで、小学校時代は辛くて、ただそれが普通だと思っていたので

早く死にたいなぁ、どっかの研究機関から攫われないかなぁと漠然と思っていました。そして、小学生でありながら私は「教師という人種は敵だ、気違いだ」と思うようになり、もし何か賞を取ってインタビューを受けることがあったら(ここらへん子供の妄想ぽくてほほえましい…ですよね)「私の忍耐は○○小学校の○○先生に鍛えられたようなものです。私はあの頃に理不尽さ、人の汚さを学びました」とか言ってやろうと思っていました。余談ですけど。

 

で、中学に入って、(私だけ受験してある私立のエスカレーター式中学受かりました。なので高校も同じです。他にも受験してた人はいるけど別の中学か、元の私立小学校からの中学へ進級ました。他は公立)なんか、周りが思いのほか

自由にしていてものすごくカルチャーショックを受けました。

家族で楽しく話をする、父親と母親が結婚記念日に二人でどこかに行く、という話を聞いて、「ホームドラマか!?」と思いました。

そして先生がとてもフェアでした。教師みんな滅びよとか思ってたけど違う人もいるんだ、と少し修正が入りました。未だに独善的な教師は苦手ですけどね。

 

それはさておき

家庭の不安定感はあるんですけど、中高は比較的、私の中でましな部類です。

そこでも母親からまぁ、色々言われるんですけど、

そのせいでやっぱり21歳までには死にたいな、と度々思ってはいるし

基本人嫌いは悪化する一方なんですが、

勉強はできたので

自分でプログラミングを勉強して(あ、基礎は近所のお姉さんの彼氏さんに教えてもらいました)、flashゲームを作ったりしていました。

今ではもう懐かしのflash

絵は描くの好きだったんですけど「お前に才能はない」と母親に言われてから

無気力になり、隠れて描くのも大変なので(ノート見られて破られたりしたので…)

親から見て訳分からん領域のPCのプログラミングに逃げたのです。勉強だよーって言ってごまかしていました。

ちょうどそのころ、美術部の部長(中高一貫なのでずーっと美術やってる子)に

ゲームに使う絵を描いてくれないかと頼んでOKを貰い、水彩画調の柔らかい色彩で可愛い世界観の、子供の目からみてとてもとても素敵なシューティングゲームができました。(今見ても美術部部長も絵はすごいです。。。賞も取っている子でした。美大目指して忙しいのによくOKしてくれたな、と思います)

ちなみにコンセプトは「シューティングとかやらないであろう女子高生もやってくれるゲーム」です。アプローチできてたかは知りませんが。だって個人サイトで公開してたし。

制作期間は夏から冬までかかってたので、結構時間かかったのですが、

最低10時間は遊べる(周回要素のある)ゲームを作り上げました。

途中、プログラミングを手伝ってくれる助っ人もでき、ちょっとしたチームになっていました。

 

この時私は、「なんかゲームとか生活必需品じゃないし戦争が始まったらまず売れなくなるだろうし、ぜんっぜん人の役に立たないけど、私は人の役に立ちたくもないし、むしろこういう、役に立たないけど遊びの為だけに存在する仕事がしたい…」

と漠然と思ったのでした。

 

私を取り巻く人が大嫌いだから、世の中が、(親が)憎いから、人の役に立つ仕事はしたくない。

意味が無いのに存在する仕事がしたい。(ゲーム業界にとってめっちゃ失礼な言い方です、分かってます)

でも、ほんとはちょっと人に感動してもらいたい。

 

こんなアンビバレントな感情が生まれ、私は、そういう業界(エンターテイメント関係)に進みたいな、と進路を考える様になりました。

その頃から私のことを知っている友人は、この時の私はとても輝いていたと言います。

私もそうだと思います。

初めて自分(と誰かで)で何かを作り

世界に他者に発信できたのだから。

 

自分は無力じゃないんだなー、と、初めて思えた時期でした。

同時にWEBってすごいな、とも思えました。

知らない人から感想が来る、交流が生まれる。

もっとすごい作品をつくる人が沢山いる。

私は、WEBの世界に興味を持ちました。

進路について真剣に考え始めました。

でも、そこでまた大きなミスをしてしまいました。

 

「ゲームを作る?企画したい? 東京の大学?許さん」その声に従ってしまいました。大体いつも、私が楽しそうにしていると水をさしてくる、あの人です。

さらに自分の中ではまだ、「21歳で死ぬつもりだし、何やっても無駄だけどまだ親からお金出してもらっているから、親が自慢できる(許容もらえる)とこに行かないと」と、冷静な判断のつもりで

東京の有名大学で「つぶしがきく」と言われる比較的難しい学部に入る事を決めました。

ほらちゃんと勉強してるよ、安心してよ、受かったよ。

 エリートコースだよ。(地頭良くないがり勉だけどな)

 

ただそれ自体は、そこまで大きなミスではないと思います。

倒れて一度編入しましたが沢山の事を学べたし、レベルが高い場所でいい授業を受けられました。

 

ミスは、何かやりたいことができた時に

「無理だ 諦めろ」その声が自動的に出る様になってしまったことです。

せっかく楽しい事を見つけたのに、どうせゲーム業界に入れるわけないから

全部捨ててしまえ、とか、企画やりたい?無理だよ、とか

それとも、何か楽しい事を発見すると、それをしてはいけない気持ちになるんです。

なんなんでしょう、これ。

 

というか、自分でちゃんと考えてこなかったから、

今、ぽっきり折れてしまっているんでしょうか。

節目の決定を、誰かに委ねてしまっている。

 

ここまで長々書いたのに、もう少しですっきりしそうなのに、

結論出ません。ごめんなさい。

 

こんな感じで、まだ私にとって、生きること、頑張る事=辛いこと

なのです。

1社目ではそれがちょっと覆されるんですけどね。

過労で倒れてしまったけど、仕事の楽しさを教えてくれた…

あ、なんだ。

 

私が全部チャンスを捨ててるんだ。やっぱり私は恵まれた環境に行くことができたのに、棒に振ったんだ。

そういうことか。

すみません、自己責任でした。

あ、締りが悪いですね。すみません、これも何度目かの確認になってしまいそうです。

自分で道を開いたのに、閉じてしまった。

馬鹿ですね、私。

 

大人になってからの、私を取り巻く環境はとても恵まれていたのに

私の考え方が子供のままだったんですね。

 

混乱してきたので寝ます、

おやすみなさい。 

また明日。